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アロマ、レイキ、徒然のことを綴ってゆきます
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某公共放送で二重被爆を体験した山口彊さんの番組をやっていた。これは三菱重工が当時広島と長崎の両方に造船所を持っていたことから起こったことだが。

僕には戦争体験はもちろんないが、この番組を見ていて思い出したことがあった。

僕の父親は7人兄弟の末っ子なので、従姉妹・従姉妹は全部かなり年上だ。その中の一人で、今でいうところのグレた子がいて(今のヤンキー?)、当時キャバレーで働いていて,知り合った米軍人と結婚した従姉妹がいる。

今改めて考えてみると、当時としては、これはかなりショッキングな出来ことであるはずだ。ウチの父親は、世間体とか、つまらない常識とかには囚われない人なので、こういった従姉妹でも大切にしていた。僕自身もこういうウチの家風は、常にありがたいと思うことしかない。色々な面で助けてもらうことが多い。

当時は米軍は関東村といって、府中に家族居住区を持っていた。たぶん僕はまだ小学生か中学生か、従姉妹はその時点で付き合っていただけなのか、すでに結婚していたのか記憶にないが、その関東村の米軍家族の家に遊びに行くことになった。従姉妹の相手の米軍人は、もともと奥さんが日本人で、その奥さんが亡くなってしまっていて、ハーフの子供がすでに2人いる、そういう家族で従姉妹は後妻に入った。

こういう時に親がついて行かないのが,ウチの家の素晴らしいところだろうか。逆に子供だけだったら,波風が立たないと考えたのか分からないが。もしも、自分がもっと大人だったら違う反応をしたかもしれないが、ワクワクドキドキだった様に思う。

最初にゲートに入るところからして、フェンスの構造や,中の雰囲気、建物、そして空気が全部日本とは違った。日本なのに日本ではなかった。(まあ、いまからするとそれは極めて典型的なアメリカのものだが)向こうの子供達も近い年齢ではあったが、今考えてみると、当時のアメリカの子供が、アジアのガキンチョをどう思っていたのであろうか。その時はクリスマスだったか、サンクスギビングだったか、七面鳥が出て、とにかくパサパサしているので七面鳥はまずいものだ、なんでこんなモンを喜んで食べるんだと思った記憶がある。付け合わせの紫のカブが美味しかった。お菓子やジュースや全部味が派手で,それでアメリカを感じた。

これが僕の戦争(戦後)体験ともいえるものだった。従姉妹達は、その後アメリカに行って,ご主人は死んでしまうが、従姉妹は子供達と良い関係を保って、今でもアメリカで頑張って暮らしてる。

この子供の時の体験は,たぶん大なり小なり影響を残したと思う。アメリカという国に対して、違和感なく、適度なあこがれを生んだように思う。ただ、成人してアメリカで4年ほど暮らして、そういった感覚はずいぶんと変わってしまった。友人もいたし、競争相手もいたが、今では、逆に違和感のほうが多いし、あこがれというのはない。アメリカ滞在は身分が保障されていたし、インテリ層での人間関係が大部分だったので、表だった人種差別というのは肌には感じなかったが、逆に、何故アメリカが簡単に原爆を投下したのかは良くわかる気がする。ごくごく普通のアメリカ人にとって、日本というアジアの小国はどうでも良い存在である。教育レベルの低い国なので、日本が世界地図のどこにあるのか知らない人も実際に沢山いる。落とす落とさないというのは高度な判断があるが、落としてしまったのにはそれなりに背景があると思う。

最初の番組の話だが、山口彊さんがアメリカに対する恨みはないといっていたことは、もの凄いと思う。極限状態を体験した人だから言える言葉なのかもしれない。日本では積極的に報道されないが、日本人の戦死者と、他のアジアの戦死者とを比較すると,圧倒的に日本に殺されたアジア人のほうが多いのだ。原爆だけを捉えることは出来ない。
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